その後・・

このため山本権兵衛さんに組閣の命令が下りました。
立憲政友会の援助を受け、原敬内相の下、安定した政権運営を行ったのです。
軍部大臣現役武官制を緩和するなど、政党寄りの姿勢を示していたのですが、シーメンス事件をきっかけに再び世論の反発を受けて、最終的には貴族院との関係悪化から倒れてしまい・・・。

次いで元老井上馨さんの後押しで、庶民的で大衆に人気のあった大隈重信が組閣。
大正3年に勃発した第一次世界大戦では、加藤高明外相が中国に二十一か条の要求を提出しました。

大隈内閣退陣後には、二大政党制を目指して、大正2年に桂が死の直前に結成した立憲同志会が他党を取り込むかたちで憲政会へと拡大ていったのです。

桂太郎

桂太郎さんが議会での交代のルールを無視して宮中侍従長から3度目の首相に返り咲こうとしました。
この桂さんの返り咲きに対して・・・都市部の知識階級を中心に反発は、強くなったそうです。そりゃ、そうですよね・・・。

そして尾崎行雄・犬養毅さん達による憲政擁護運動(護憲運動)が起こって、新聞の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、ついには僅か数ヶ月で倒閣となりました・・。
色々な政権交代があったのですね。
いつの時代もそうだったのですね。

大正初期

明治末期にかけては軍部や元老山縣有朋の下で藩閥政治が続いていましたが、大正初期にかけては山県系列の桂太郎さんと比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、桂園時代とも呼ばれていたそうです。時代という風に名づけるのは・・・相当な影響力があったんですね~。

そして明治45年、第2次西園寺内閣の陸軍大臣上原勇作が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、陸軍は後任陸相を出さなかったため軍部大臣現役武官制によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職しました。結局は、全員辞めてしまったのです。

民主的な色彩

大正12年(1923年)に関東大震災が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。大正末期には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原外交(加藤内閣)が展開され、中国への内政不干渉、ソ連と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。

原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。普選運動が活発化し、平塚雷鳥や市川房枝らの婦人参政権運動も活発となった。大正14年(1925年)には、普通選挙法が成立したが、同時に治安維持法が制定された。言論界も活況を呈し、君主制と民主主義を折衷しようとした吉野作造の民本主義や美濃部達吉の天皇機関説などが現れた。

内閣を組織

大正年間には、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の藩閥支配体制が揺らいで、政党勢力が進出した。それは大正デモクラシーと呼ばれ、尾崎行雄・犬養毅らがその指導層となった。大正デモクラシー時代は、大正7年(1918年)の米騒動の前と後で分けられることが多いが、米騒動後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相原敬が内閣を組織した。

大正デモクラシー

本時代は後世から振り返った時、大正デモクラシーに基づいた安定期として見られることが多い。しかし、同時代的には、近代日本の象徴であった明治天皇の崩御、そして病弱であった大正天皇の即位、という不安感を拭いきれない状況から始まったのである。また、大正期を通じて都市に享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働争議の激化など社会的な矛盾が深まっていった。

大正天皇実録

「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とお)りて以て正しきは、天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。

なお大正天皇実録によれば他の元号案として「永安」「乾徳」「昭徳」「天興」「興化」の案があったが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により「大正」に決定した。

1912年7月30日から

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大正(たいしょう)とは、日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である大正元年(1912年)7月30日から大正15年(1926年)12月25日までの期間を指す。
大正元年(1912年)7月30日 - 明治天皇が崩御し、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が践祚したため、改元の詔書を公布、即日施行した。
大正15年(1926年)12月25日 - 大正天皇が崩御し、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が践祚したため、昭和に改元、同日は昭和元年12月25日となった。