高嶺の花から庶民のテレビへ

わずか八六六の受信契約数でスタートしたテレビ放送は、五九年一二月、契約数三四六万に増大、民放テレビ運用社数は三八社に増加する。

テレビにとり本期は、視聴者数、民放テレビ社数とも、飛躍の時代だった。

五五年四月にラジオ東京が初のラ・テ兼営局としてテレビ放送を開始、翌五六年一二月に中部日本放送テレビと大阪テレビが開局し、東・阪・名の三大都市圏に民放テレビが出そろった。

次いで、五六年二月に決定された郵政省のテレビ全国置局政策に沿って、五七年四月の北海道放送テレビを皮切りに、五九年末までに合計三四社が順次開局、五九年二月に日本教育テレビが民放初の教育専門局として開局、同年三月にはフジテレビが開局した。

民放テレビの全国普及を促した大きな要因の一つは、五九年四月一〇日の「皇太子ご成婚」だった。

"世紀の祝典"は、マイクロ波回線の敷設、テレビ送信施設の建設、視聴者の受像機購入を煽り立てたのです。

テレビ!飛躍の時代1一九五五~五九年

概観一九五六年度版『経済白書』が「もはや戦後ではない」と宣言、日本経済は神武景気(五五~五六年)から岩戸景気(五八~六一年)へと上昇を続け、世の中は電化ブームに湧き、"三種の神器"が人びとの消費意欲を誘った。

そうした経済・社会状況のなかで、テレビは"新しい生活"を演出する主役として歓迎され、茶の間への進出を始める。

五九年の皇太子ご成婚は、民放テレビの全国展開と受像機普及を加速させ、運用社数はご成婚直前の四月一日に三一社に達し、受信契約数も同月三日に二〇〇万を突破した。

ソフト面も制作体制の拡充にともない、ニュース、ドキュメンタリーなどを中心にテレビ固有のソフトの開発が進む。

ラジオは、テレビのお茶の間進出に対し、テレビの未開拓ゾーンとして残された朝・昼・深夜の時間帯への転進に活路を求め始め、本期初めに登場したトランジスタラジオは、個人聴取の拡大を促した。

テレビ放送の開始

五三年二月にNHK東京テレビ局、同年八月に日本テレビ放送網(日本テレビ)が開局した。

受像機普及台数はNHK開局時が八六六台、日本テレビ開局時で三五〇〇台であった。

一流企業の大卒新入社員の初任給が一万円前後の時代、テレビ受像機価格は、国産一七インチ型で二三万~二九万円、庶民にはまさに高嶺の花だったのである。

だが、エリア各所に設置された街頭テレビには大群衆が押し寄せ、テレビへの人びとの関心の大きさを示した。

初期のテレビ番組は、まだ制作設備・技術が不十分だったこともあって、きわめて素朴で、"見える"ことに重点がおかれたが、プロ野球、プロレスなどのスポーツ中継や舞台中継が人気を集めた。

なお、テレビの成長を警戒する映画会社は、五三年にテレビへの作品供給を行わない方針をとり(五社協定)、唯一日活のみが日本テレビに作品を提供した。

初のテレビ予備免許

一九五一年九月、日本テレビ放送網設立構想が発表され、テレビ放送の実現がにわかに現実味を帯びてきた。

構想は、まず東京に放送局を建設した後、順次各地に送信所や中継施設を設置し、それらをマイクロ波回線で全国を縦断的に結んで、全国ネットワークを構築する、という大規模なものであった。

日本テレビ放送網は翌一〇月二日、電波監理委員会に免許申請書を提出。

これを機に、それまで時期尚早を唱えていたNHKも方針を転換、テレビ局開設準備を急ぎ、一〇月二七日に免許申請を提出、ラジオ東京など四社がこれに続いた。

初のテレビ予備免許は、五二年七月三一日、日本テレビ放送網一社に与えられ、NHKとラジオ東京については留保となった。

電波監理委員会は、このテレビ予備免許を任務遂行の最後として解散した。

NHKは約五カ月後の一二月二六日に予備免許を与えられました。

大正時代の着物

大正時代のアンティーク着物です。

柄がすっごく可愛いですよね^^

とても華やかな模様ばかりです。

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大正時代や昭和の初期に、一般市民の間にもかなり洋装が入ってきました。

しかしほとんどの人々は基本的に和装だったようですね。

そんな自由な時代の空気が影響したのか、着物のモチーフには色鮮やかで大胆なものが多く見られます。

日本伝統の花々がたくさん描かれた、豪華絢爛な柄。

抽象模様に幾何学模様、絵画模様・・・

西洋文化の影響も見られます。

チューリップや薔薇など、それまで日本の文様としては馴染みの少なかった花々も、図案のモチーフとして好まれ始めた時代です。

いいかんじに和洋折衷され、さまざまなテイストの柄を楽しんでいたすてきな時代^^

だから今見てもとても魅力的なんですね。

大正ロマン

大正といえば、大正ロマン・・・。

大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指す言葉です。

19世紀を中心に、ヨーロッパで展開した精神運動である「ロマン主義」の影響を受け、大正時代の個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮にかぶせて、このように呼ばれるようになったそうです。

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大正ロマンの代表、竹久夢二の作品です。

すてきですね。

ベッドタウン

「ベッドタウン」は、都心へ通勤する人の住宅を中心に発達した、大都市周辺の郊外化した衛星都市です。
駅などを中心に自然発生した場合もありますが、当初から都市への通勤者向けに計画的に造られたものもあります。

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明治時代末から大正時代にかけて都市への人口が集中したこと、工場と住宅の混在による環境問題、スラムの発生などが社会問題になっていました。

そこで西欧の「田園都市」思想が紹介され、環境のよい郊外の生活も提唱されるようになったそうです。

サラリーマンの増加に伴い、彼らの住居の需要に応えるために鉄道会社などが、近郊の農村の宅地開発を行なってきました。

仕事があるなら今はもうわざわざ都心に住まなくてもいいんですけどねぇ。
欲しいものは何でもネットで買える時代ですし。

まー地方に仕事がないのが問題なのか。

阪神間モダニズム

「阪神間モダニズム」とは、戦前にかけて、主に六甲山系と海に囲まれた理想的な地形を有する阪神間(神戸市灘区・東灘区、芦屋市、宝塚市、西宮市、伊丹市、尼崎市、三田市、川西市)を中心とした地域を土台に育まれた、近代的な芸術・文化・生活様式とその時代の状況を指します。

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(関西学院 上ケ原キャンパス)

大正12年に起きた関東大震災によって、継続的な都市化が一旦中断した東京湾岸とは対照的に、都市拡大を続ける大阪湾岸(大阪・神戸)近郊の郊外化にともない、大阪府下の池田市、箕面市、豊中市、および神戸市須磨区・垂水区辺りまで、その文化圏は拡がっていきました。

大正時代の子供服


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かわいいですよね。

この頃の子供たちは、羽織に袴を履いています。
教科書はランドセルじゃなくふろしきに包んで持って行き、黄色のふくろに草履を入れ、胸には健康表示を付ける、というのが基本的な格好だったそうです。

履物は男子は高下駄で女子は雪駄。これで通学していたんですね~。

また、学校の先生は、男性教諭がつめえりの服で、女性教諭は、羽織袴という服装で決まっていたそうです。


非政党内閣

これとほぼ同時に組閣した寺内正毅内閣が成立。
大正6年のロシア革命でソ連が成立しましたが、日本は革命政権が覆った為にシベリアに出兵。

丁度その時、大戦景気によるインフレとシベリア出兵をきっかけとして国内では米価が暴騰し、富山県から米騒動が起こり、全国に広がりました。
政府はやっとの事でそれを鎮圧しましたが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣・・・。

代わって初めて爵位がなく、また衆議院に議席を持つ平民宰相として政友会の原敬さんが首相となって、大正7年本格的政党内閣として原敬内閣が成立!
しかし・・・大正10年に原さんが東京駅頭で青年に暗殺されたのです・・・。

続いて政友会総裁となった高橋是清さんが首相となったのですが、政友会の調整能力に欠き、高橋内閣倒閣後は非政党内閣が続いたのです。