日本が選んだ道

大蔵省、日銀は、慢性的な外貨不足を解消するための金融政策に終始し、円切り上げを含む適切な通貨政策をとることができなかったのです。


また、政策的に見ると、昭和40年(1965年)以後、佐藤内閣によって出された経済計画は、いずれも物価抑制を課題として掲げながら、それに失敗しました。


たとえば「中期経済政策」は「高度成長の歪みの是正」を目ざし、物価上昇率を低くするために成長率を低く見積りました。


しかし、成長の実勢ははるかに高く、したがって物価もそれだけ上がる結果となりました。


官僚の作文と批判されたゆえんです。


昭和40年代を通して、日本は高度成長の効果的な制御に失敗しました。


少なくとも、西ドイツ経済がそうしたように成長から成熟へのゆるやかな着地はできなかったのです。


皮肉なことに、念願の外貨不足が解消され、黒字基調が定着した昭和43年(1968年)ごろからドル安が表面化し、世界は通貨危機の時代に突入していきました。


・・・しかし、日本政府、日銀は外貨不足の呪縛から、円切り上げを前提とする通貨政策を断行することができなかったのです。

ドル危機の渦中をどう切り抜けるか

すでに述べたように、西ドイツは1950年代「奇跡の成長」を遂げる過程で、ヨーロッパをベースとし、自由貿易の原則を確立することができました。


1960年には、GNP世界第二位となり、ヨーロッパのドイツから世界のドイツへと飛躍しました。


大幅黒字国として、マルクに対する割安感が周辺諸国の間に高まり、一方でマルクに対する投機が激しくなると、自国経済の実力に見合った形でマルクを切り上げ、対外摩擦を回避。


合わせて国内の物価安定をはかりました。


1950年代から60年代にかけて、西ドイツは貿易立国として「成長」から「成熟」への無理のない移行を果たしました。


日本は、こうした西ドイツとは対照的な道を歩んだのです。


なぜ・・・日本は西ドイツのような選択をしなかったのか、あるいはできなかったのでしょうか。


西ドイツがとった道は、理論的にのみあり得た選択だったのでしょうか。


現実の日本の選択は次のようでした。


日本政府は、自由化にともなう国内産業への影響について過大の評価をし、逆に、各企業の国際競争力を過小に評価しました。


・・・その結果、国際経済に向かって開かれた産業構造をつくり出すチャンスを逸しました。

「魔法の四角形」 3

しかし、この期間全体としては労働生産性の上昇幅の方が大きく、賃金コストの上昇を吸収することができました。


これによって、賃金の上昇と物価の抑制という「消費景気」の状況が現出したのです。


住宅や税金の優遇措置を受ける住宅などが年間50万戸以上のペースで建てられ、西ドイツにおける「住宅問題」は解決しました。


1961年には、労働者の生活水準を上げるために「第一次労働者財産形成法」を制定したり、1950年代から60年代を通じて、「成熟」の国民への還元は政策的に行われました。


特に、住宅普及は戦後の西ドイツ政府が最も力を入れた政策の1つです。


第一次、第二次の「住宅建設法」にもとついて、公的融資を受ける社会1967年には、「週休ニ日制」の法制化が行われました。


1963年には「連邦休暇法」が制定され、労働者は長期にわたる有給休暇がとれるようになりました。


・・・このような社会資本の充実や生活の質の向上に関する法制化が、GNP世界第二位になり、経済的に「成熟」の時代に移行する過程で実現されたことは、西ドイツが、つねに生活者中心の論理で動き、社会国家としての堅牢さを持っていることを充分に証拠立てました。


「魔法の四角形」 2

自国通貨の切り上げは当然国内の輸出企業を圧迫しました。


しかし、ヨーロッパ域内においては、1958年以来通貨の自由交換性が回復していたので、西ドイツの輸出企業はヨーロッパの輸出先に直接投資することができました。


これによって、西ドイツの個々の企業はむしろ過度の輸出依存から脱することができ、同時に西ドイツ全体の産業構造もバランスを保つことができたのです。


1960年代の成熟期、消費者物価は、50年代よりやや上昇したとはいえ、なお安定を保っていました。


1957年から67年の間の年平均上昇率は2.3パーセントにとどまっています。


物価に敏感なドイツ人はこれでも警戒心を強めましたが、同じ時期の日本が4.6パーセントであったのに比べればまだまだ低かったのです。


なぜ、物価上昇が抑えられたかは、マルク切り上げという為替政策によるところが大きかったことはすでに述べましたが、もう1つこの時期の労働生産性の高さも無視できません。


1950年代末から始まった労働力不足は、60年代に入って需要超過基調を定着させました。


これを補って外国人労働者が流入しましたが、このころからドイツ人労働者の労働時間短縮が続き、全体の労働力不足と併走する形となりました。


こうした労働力市場の逼迫は当然賃金の上昇を引き起こしました。

「魔法の四角形」

西ドイツには「魔法の四角形」という理念があります。


物価の安定を前提としながら、適度な成長、高い雇用率、そしてバランスある経常収支・・・


これら一見矛盾する4つの要素を均衡させていくことが西ドイツ経済の安定につながるという考え方です。


むろん、これら4つの要素が同時に達成されたことは1度もないのですが、政府や連邦銀行当局者たちは「魔法の四角形」を理念として掲げ、その実現を目ざすという姿勢を変えません。


自国通貨を切り上げることは、黒字を減らし貿易相手国との摩擦を回避し、同時に安い外国製品を国内にもたらし物価を抑え経済に安定をもたらします。


1961年のマルク切り上げは適度な成長を保ちつつ、物価安定をもたらす効果を発揮しました。


この時期、西ドイツにおいては「成熟」につきもののインフレは起こらず、物価の安定が維持され、「魔法の四角形」に一歩近づくことができたのです。


こうした「成長」から「成熟」への過程で西ドイツ経済が身につけた原則は、通貨の切り上げが対外関係を改善。


同時に、輸入増のメリットが物価面に波及し、国民の実質的な所得拡大につながる、という確信でした。


自由競争と物価安定を柱とする西ドイツ政府の基本政策がここでも確認されました。

成熟期の第一歩 2

1961年、ドイツ・マルクは戦後初めて切り上げられました。


1ドル日4.20マルクから4.00マルクに変わりました。


切り上げの結果、61年の輸出の伸び率は、前年の}6パーセントから6.3パーセントに低下。


62年には4.6パーセントと停滞しました。


・・・ところが、マルク切り上げのねらいだった輸入は、61年には前年比でわずか3.8パーセントしか増えなかったのです。


しかし、63年には、輸出が10パーセント、輸入が14.9パーセントと伸び、再び活況を取り戻しました。


これはマルク切り上げの直接的効果というよりも、西ドイツ市場の拡大というマクロ的な要因によるものと考えられました。


・・・こうしたことは、マルク切り上げにもかかわらず、1960年代を通じて西ドイツの輸出拡大力が衰えなかったことを示しています。


輸出の伸び率こそ1950年代の平均年率19パーセントに比べて9.2パーセントとほぼ半減したものの、経済規模そのものが2倍のスケールになっていたため、生産・消費ともに拡充しました。


こうして、西ドイツ経済は成熟段階に入り、西側世界の経済大国としての地位を揺ぎないものにしました。

成熟期の第一歩

西ドイツはGNPでイギリスを追い抜き世界第二位になったのは1960年ですが、1960年代に入ると、成長率は50年代の年平均8.9パーセントから5.4パーセントに低下。


しかし、西ドイツ経済は依然輸出の活況を呈し、過熱含みの経済拡大の中で「成熟期」を迎えようとしていました。


1950年代を通して西ドイツは、貿易の競争相手国からマルクの割安を常に批判されながら輸出を拡大させてきました。


1959年以降は、輸出代金の増大に加えて、マルクに対する投機が活発化します。


マルク切り上げにもかかわらず、輸出の勢いは衰えることを知らなかったのです。


そして外資が大量に流入し、国内通貨量の著しい増加をもたらしました。


輸出代金であれ、投機であれ、外貨がダブつくことはマルク紙幣の増札につながり、物価上昇の危険をまねくことになります。


連邦銀行は、こうした景気過熱を抑制するために公定歩合を引き上げましたが、かえって外資の流入を刺激する結果になった。


さらに、資本取引自由化のもとでは、外国企業が西ドイツ証券を買う動きが活発化し、逆にドイツ企業自身による外資の導入が積極化するなどして、金融による外資対策だけでは過熱を食い止めることができなくなりました。

「成長」から「成熟」へ

西ドイツは、自国内だけで完結した産業構造を形成せず、EECの内部での最適分業の原理に任せつつ、そこから最大限の利益を引き出すことに成功しました。


・・・言い換えれば、「奇跡の成長」を続けながらも、開いた経済体制を構築し、次の安定成長期への無理のない移行を着実に準備していたのです。


西ドイツが実力の伯仲するパートナーに恵まれたことは事実ですが、それらの国々との共存のもとに全体的なスケールアップを目ざしたその戦略は評価されます。


自前主義と輸出志向でひたすら成長路線を走り抜けようとした日本との大きな違いがここにありました。


「奇跡の50年代」を経て、西ドイツはヨーロッパ最強の経済大国の地位を得ました。


ヨーロッパの一員として復帰する道が、同時にヨーロッパを基盤とし、そこをこえることによって世界経済へ飛躍的に参入していく近道でもあったのです。

安定成長期の無理のない移行 3

フランスの側には「フランスとドイツの歴史的和解によってヨーロッパにおける戦争の危険を恒久的に取り除く」というシューマン・プランがありました。


その一方で「ドイツの石炭とフランスの鉄鋼との結婚による統合ヨーロッパの誕生」というシューマン・プランは、西ドイツの急テンポの経済成長に対する牽制の側面も持っていました。


・・・ともあれ、西ドイツは、ヨーロッパ社会への復帰はフランスとの和解なくしてはありえないとの認識からこのシューマン提案に同意しました。


ヨーロッパ統合への動きは、1951年のECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)から1957年のEEC(欧州経済共同体)へと発展し、通貨、金融、税制、輸送、農業、労働など経済活動全般にわたる共同体が成立しました。


西ドイツは、この統合の過程で一貫して自由貿易政策を提唱することによって域内関税の引き下げに成功しました。


・・・・他方、現実の経済政策面で多少の負担が避けられない場合でも、あえてそれを受け入れるという態度も忘れなかったのです。


たとえば、域内の特にフランスの比較的安い農産物を輸入して西ドイツで販売する場合には、国内の農業を保護するために高く売らなければなりません。


そのためにフランス農民にはEECの基金から差額の調整金が支払われなければならなかったのです。


その調整金は結局西ドイツが負担しました。


要するに、西ドイツはフランスの農業を保護するために高い金を払うという妥協を行ったのです。

安定成長期の無理のない移行 2

初年度にあたる1951年は、各国に先がけて輸入の自由化を断行したので4億8000万ドルの借りこしとなったものの、これは自由化のための一時的負担と受けとめられました。


しかし、翌年からは黒字を累積するようになり、1953年には、域内における輸入自由化率90パーセントを達成、貿易の数量制限と為替管理から解放されて輸出規模を着実に伸ぼしていきました。


1958年のEPU解散までに西ドイツは、45億8100万ドルの債権を累積させました。


ちなみに債務を累積させたのはフランス、イギリス、イタリアでした。


もともとEPUは、加盟各国が貿易量を拡大し、対米自立を達成するための暫定的な制度でした。


そのため、1958年、各国通貨の自由交換性の回復とともに解散しました。


ちなみにこの1958年という年は、西ドイツの高度成長に一応のピリオドが打たれ、次の安定成長へ向かう年でもありました。


EPUの動きと並行して、ヨーロッパの政治経済的な統合の動きが進んでいた。


この流れの中で西ドイツはどのような動きをしたのでしょうか。


当時、東西冷戦下のアメリカの世界戦略からすれば、ヨーロッパの統合は、ドイツ問題の西側的解決の場をつくることでした。


これに対して西ドイツの側には、経済的な繁栄こそが東ドイツを吸引する力となるであろうというアデナウアーの"磁石理論"が用意されていました。