<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0">
   <channel>
      <title>はいからな日記</title>
      <link>http://rodeoragz.com/</link>
      <description>短かった大正時代のこと</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2012</copyright>
      <lastBuildDate>Thu, 02 Feb 2012 12:30:17 +0900</lastBuildDate>
      <generator>http://www.sixapart.com/movabletype/</generator>
      <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 

            <item>
         <title>圧力鍋で美味しいご飯</title>
         <description>普段なら、ふろふき大根の下に敷いた昆布は捨ててしまうことが多いと思いますが・・・


圧力鍋で調理したときのだし昆布は、ほんとうにおいしく食べられるので、カルシウムなどのミネラル補給にもなります。


西洋料理が続くと、どうしても海藻類は料理に使わないので摂取しにくくなるものですが、シチューの場合も、昆布を入れておき、できあがったところでとりだして、別の皿にとって食べるということもできます。


鯛のあら煮や、ぶりのあら煮も、手軽につくれます。


ところで、圧力鍋のもうひとつの難点といえば・・・


ガスコンロの口数が2つしかない普通の台所で、そのうちのひとつを玄米炊きのためにとられてしまうと、残りのひとつのガスロで、ほかの調理いっさいをまかなわなければならないことで、たいそう不便を感じることでしょう。


そういうときに便利なのが、電気圧力鍋です。


圧力鍋の機構そのものは、ガス式とほぼ同じです。

</description>
         <link>http://rodeoragz.com/2012/02/post_31.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2012/02/post_31.html</guid>
        
        
         <pubDate>Thu, 02 Feb 2012 12:30:17 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>コネチカット州の古い港町　2</title>
         <description>同時にニューヘイブンからスプリングフィールドまでの街道はこうしたメカニックたちが行き交い、話しこみ、交流しあう場所であったにちがいありません。


彼の工場も最初から整然とした分業が行われたわけではないでしょう。


単なるメカニックスの寄り合い所帯にすぎなかったのです。


政府から大量の注文を受けたものの、仕事ははかどらなかったにちがいありません。


しかし、こうしたメカニックスが一つ屋根の下で仕事をすることそれ自体に意義がありました。


アダム・スミスのピン製造の整然たる分業組織が最初から生まれたわけではないのです。


おそらくホイットニーが評価されるのは、発明者としてではなく、メカニックたちとともに永年辛酸をなめたオーガナイザーとしての経験と能力であったにちがいありません。


・・・こうしたヤンキー・メカニックスの伝統は、やがてエディソンやフォードにも伝えられてゆくのです。


</description>
         <link>http://rodeoragz.com/2012/01/2_6.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2012/01/2_6.html</guid>
        
        
         <pubDate>Mon, 09 Jan 2012 17:45:22 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>コネチカット州の古い港町</title>
         <description>1638年清教徒たちによって開かれたーニューヘイブンの近くに、現在ホイットニービレッジという町があります。


ホイットニーが最初は綿繰り機の製造のために工場をつくったが、これを銃砲工場に再建した、由緒ある場所です。


ニューヘイブンには彼の母校エール大学(アメリカではハーバードに次ぐ古い大学)があって、彼の人間関係の中心となっています。


この町を北にコネチカット川を遡ってマサチューセッツ州に入ると、アメリカ兵器廠のあるスプリングフィールドに達します。


興味をそそられるのは、彼の工場がもとはといえば農家の納屋だったことです。


そこには不毛の岩だらけの土地を開拓した、ニューイングランド農業との深いつながりが感じられます。


彼の工場には村にいた鍛冶屋などの手工業者や渡り職人が集まってきたのでしょう。


これらアメリカ産業初期を特徴づけたヤンキー・メカニックたちの仕事への執着心は、やはり清教徒的倫理観と不可分な関係にあります。

</description>
         <link>http://rodeoragz.com/2011/12/post_30.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2011/12/post_30.html</guid>
        
        
         <pubDate>Tue, 13 Dec 2011 17:44:50 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>アメリカの歴史　2</title>
         <description>歴史家ジョナサン・ヒューズは、


「ホイットニーの生涯における最大の皮肉は、おそらく南北戦争の両側に残した彼の事業による影響であったろう」


・・・と述べています。


このようにある程度誇張を伴いながら、個人の役割を重視するこの歴史家の見方はそれなりに興味深いのですが・・・


そのヒューズも現代大量生産技術の基本である互換性部品の起源におけるホイットニーの役割については、彼の仲間であった多くのヤンキー・メカニックたちの「代表者」にすぎなかったという立場を堅持しているのです。


他方、新技術の拡散過程を重視する技術史のローゼンバーグは、慎重に名指しは避けつつも、「誰が創始者か」の問題については「ニ次的な意義」を持つものにすぎないとしています。


「名前や時日は初歩の歴史の叙述を単純化するのには役立つかもしれないが、発明の経済的成果の評価には何も寄与しない。


経済的インパクトの観点からみれば、重要なのはその拡散過程である」


・・・と述べています。


それにもかかわらず、アメリカ企業文明史の文脈からみる限り、イーライ・ホイットニーは興味ある人物であることには変わりはありません。

</description>
         <link>http://rodeoragz.com/2011/11/2_5.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2011/11/2_5.html</guid>
        
        
         <pubDate>Wed, 02 Nov 2011 17:44:05 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>アメリカの歴史</title>
         <description>18世紀のアメリカ政府は当時、マスケット銃の国産化を迫られており、彼が宣伝する「量産技術」に期待するものがありました。


この契約で彼は22万4000ドルという、当時としては大金を前渡しされましたが、銃の完納まで10年かかっています。


そのような納入の遅れにもかかわらず、これに続いて政府は1812年にも1万5000丁の銃を彼に発注しています。


その時も、完納したのは1822年でした。


その直後病にかかったホイットニーは、1825年に60歳で没しています。


ホイットニーが発明した綿繰り機により、綿花栽培は南部において、東は南北カロライナ、西はテキサス、南はフロリダ、北はテネシーにまで広がって、「キング・コットン」とまでいわれる巨大な王国と、これを支える奴隷制度が築かれました。


一方で北部においては自分がこれに加わった大量生産に基づく工業力が形成されつつありました。


・・・その結果、この若い独立国を南北に分断したニ大勢力がやがて衝突するに至る運命を、彼は知らずに死んだのです。

</description>
         <link>http://rodeoragz.com/2011/10/post_29.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2011/10/post_29.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sun, 30 Oct 2011 17:43:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>伝統芸能と照明について　2</title>
         <description><![CDATA[全国の猿楽の中でも特に勢力もあり、技芸的にも優れていたのが、大和を中心として盛んだった大和猿楽と、近江一帯で活躍していた近江猿楽のうちから・・・


大和猿楽の一座、結崎座(現在の観世流)の観阿弥、世阿弥父子が足利義満の保護を受けるようになって田楽を圧倒、社会的地位を獲得して猿楽能を独立完成しました。


もともと能とは歌舞劇の一般名称で、田楽の能、延年の能などがありましたが・・・


猿楽の能が南北朝末頃から著しく発達し、それに比べてほかの能がおとろえていったので、ただ能といえば猿楽の能を指すことになりました。


これが現在に至る能で、武家の保護を受けた能はその時代の代表的な芸術に発展していきました。


しかし、武士階級の式楽になったために大衆から離れて社会性は薄れて、狭い美の象徴の世界にとどまってしまったのです。


これに対して庶民の中から生まれた物真似、滑稽が発展して生まれた狂言は、時代と共に時代の活発な精神を受け継いでひとつの完成した喜劇になりましたが・・・


後に能と組合された(能楽)ために高度に様式化されて、生き生きとした社会性を失っていきました。


<a href="http://www.temponotatsujin.jp/SHOP/54606/list.html" target="_blank">かくれん棒</a>のような照明の発明で舞台装置は発達する一方ですが、伝統芸能にはこうした問題があったのです。


]]></description>
         <link>http://rodeoragz.com/2011/09/2_10.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2011/09/2_10.html</guid>
        
        
         <pubDate>Fri, 09 Sep 2011 13:13:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>伝統芸能と照明について</title>
         <description><![CDATA[田楽は古代の田遊び・・・


つまり田植えの祭りの芸能に散楽系統の芸が加わったものといわれています。


この田楽とほとんど同じ時期に猿楽が盛んになりましたが、初めは社寺の神事として田楽が行なわれ、その余興に猿楽が演じられたといわれています。


田楽、猿楽の盛んな上演は田楽法師、猿楽法師など多くの職業団体としての座(劇団)を方々に生みました。


もともと滑稽な物真似や曲芸を本芸とした猿楽の人たちが、能という歌舞劇をいつごろから演じはじめたのかはっきりとわかりませんが・・・



鎌倉時代中期には能の芽生えとみられる歌舞劇を演じていたのはたしかなようです。


南北朝から室町の頃になると各地の猿楽の座ばかりではなく、田楽の人たちも同じような形式の能を演じるようになっていたようです。


こうした劇場にも、<a href="http://www.temponotatsujin.jp/SHOP/54606/list.html" target="_blank">かくれん棒</a>のような照明は使用されています。


]]></description>
         <link>http://rodeoragz.com/2011/08/post_36.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2011/08/post_36.html</guid>
        
        
         <pubDate>Mon, 01 Aug 2011 13:12:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>仏壇は一家の心のよりどころ　2</title>
         <description><![CDATA[よそからの頂き物や、仏飯や水や初物を仏前に供えるのは、すべてのものを自分が得る前にその由来を知り、得ることがあたりまえではなく、得がたくして得るという感謝の念を持つべく・・・


まず<a href="http://www.soka-butudan.jp/" target="_blank">創価学会　仏壇</a>に供えてからその賜り物を頂くことを教えているのです。


小説家の丹羽文雄氏はかつて、「当然だと思う気持ちには決して感謝の念は湧かない」といっておられますが・・・


たとえ品物が自分の努力による獲得物であったとしても、それを仏からの賜り物と考えて有難く頂くところに、人間らしい生き方があるのではないでしょうか。


インドでは一年中暑い所が多く、釈迦は胃腸の消化力の衰えから体を守るために正午以後は食事をさけていました。


信者たちはなるべく新鮮なものを自分より先に仏にささげたのは、布施の精神のあらわれで、釈迦は入滅のとき、最後に水を所望されたといいます。


インドの水は硬水で、あまり飲料に適せず、日中以後に汲みだす水には虫がわきやすく、健康のためにも、虫を殺さないためにも、新鮮な水は朝早く汲みだし、それをささげる必要があったのです。


]]></description>
         <link>http://rodeoragz.com/2011/07/2_9.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2011/07/2_9.html</guid>
        
        
         <pubDate>Tue, 12 Jul 2011 18:50:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>仏壇は一家の心のよりどころ</title>
         <description><![CDATA[仏壇は一家の心のよりどころであり、いつもきれいにし、家族そろっておまいりすべきところです。


よい家庭にはたいてい<a href="http://www.soka-butudan.jp/" target="_blank">創価学会　仏壇</a>があり、そこにまつられた先祖を中心に、いつも明るく、正しく、仲の良い生活を営んでいることに気づくでしょう。


仏が姿をあらわし、実際に眺め、食べるわけではありません。


これは「仏前に花一輪のこころがけ」とうたわれているように、自分を仏にささげるまこころのあらわれです。


心をこめて仏前に供えるものであれば、何でもよいわけですが、古くて悪臭、有毒、有刺のものはつとめて避けるべきでしょう。


やはり色も形も香りも味もよいものが望まれます。


昔から、仏前には香華をたむけ、果物や菓子や茶湯をそなえるならわしがあります。


こうしたお供え物をしたからといって、別に仏前への供物は、昔から新鮮な初物がよいとされ、ひとからの頂載物も仏前に供えてからいただくことになっています。


こうして何ごとにも仏を優先する心ゆかしい利他行が、人びとの心を豊かにし、ひいては家庭や社会を円満にするもとになるからです。


]]></description>
         <link>http://rodeoragz.com/2011/06/post_35.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2011/06/post_35.html</guid>
        
        
         <pubDate>Thu, 30 Jun 2011 18:49:17 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>まずは読んでみよう！</title>
         <description><![CDATA[次のパラグラフは、簡単な例文だ。


海外の<a href="http://www.futboljersey.com/" target="_blank">サッカーショップ</a>で買い物が出来る程度の英語力があれば、なんとなくわかるはずだ。


All coin operated public phones can be used for short-distance out-of-city calls taking up to six 10 yen coins.


All pay phones,expect the yellow ones,are operated with 10 yen coins.


The yellow phone,developed for long-distace calls,takes both 10 and the party you called answers,insert 100 yen coins.


・・・このパラグラフは、ダイヤルのかけ方だ。


Phone numbers are composed of three groups of numbers.


When making calls within Tokyo,dial just the last two groups or seven digits in all.


The first group of digits are for connection with the long distance exchange when making domestic inter-city calls.


In this case,dial all the numbers in sequence.


]]></description>
         <link>http://rodeoragz.com/2011/06/post_33.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2011/06/post_33.html</guid>
        
        
         <pubDate>Tue, 14 Jun 2011 18:26:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>日本が選んだ道</title>
         <description>大蔵省、日銀は、慢性的な外貨不足を解消するための金融政策に終始し、円切り上げを含む適切な通貨政策をとることができなかったのです。


また、政策的に見ると、昭和40年(1965年)以後、佐藤内閣によって出された経済計画は、いずれも物価抑制を課題として掲げながら、それに失敗しました。


たとえば「中期経済政策」は「高度成長の歪みの是正」を目ざし、物価上昇率を低くするために成長率を低く見積りました。


しかし、成長の実勢ははるかに高く、したがって物価もそれだけ上がる結果となりました。


官僚の作文と批判されたゆえんです。


昭和40年代を通して、日本は高度成長の効果的な制御に失敗しました。


少なくとも、西ドイツ経済がそうしたように成長から成熟へのゆるやかな着地はできなかったのです。


皮肉なことに、念願の外貨不足が解消され、黒字基調が定着した昭和43年(1968年)ごろからドル安が表面化し、世界は通貨危機の時代に突入していきました。


・・・しかし、日本政府、日銀は外貨不足の呪縛から、円切り上げを前提とする通貨政策を断行することができなかったのです。

</description>
         <link>http://rodeoragz.com/2011/05/post_28.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2011/05/post_28.html</guid>
        
        
         <pubDate>Thu, 05 May 2011 16:22:41 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ドル危機の渦中をどう切り抜けるか</title>
         <description>すでに述べたように、西ドイツは1950年代「奇跡の成長」を遂げる過程で、ヨーロッパをベースとし、自由貿易の原則を確立することができました。


1960年には、GNP世界第二位となり、ヨーロッパのドイツから世界のドイツへと飛躍しました。


大幅黒字国として、マルクに対する割安感が周辺諸国の間に高まり、一方でマルクに対する投機が激しくなると、自国経済の実力に見合った形でマルクを切り上げ、対外摩擦を回避。


合わせて国内の物価安定をはかりました。


1950年代から60年代にかけて、西ドイツは貿易立国として「成長」から「成熟」への無理のない移行を果たしました。


日本は、こうした西ドイツとは対照的な道を歩んだのです。


なぜ・・・日本は西ドイツのような選択をしなかったのか、あるいはできなかったのでしょうか。


西ドイツがとった道は、理論的にのみあり得た選択だったのでしょうか。


現実の日本の選択は次のようでした。


日本政府は、自由化にともなう国内産業への影響について過大の評価をし、逆に、各企業の国際競争力を過小に評価しました。


・・・その結果、国際経済に向かって開かれた産業構造をつくり出すチャンスを逸しました。

</description>
         <link>http://rodeoragz.com/2011/04/post_27.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2011/04/post_27.html</guid>
        
        
         <pubDate>Fri, 15 Apr 2011 16:21:42 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「魔法の四角形」　3</title>
         <description>しかし、この期間全体としては労働生産性の上昇幅の方が大きく、賃金コストの上昇を吸収することができました。


これによって、賃金の上昇と物価の抑制という「消費景気」の状況が現出したのです。


住宅や税金の優遇措置を受ける住宅などが年間50万戸以上のペースで建てられ、西ドイツにおける「住宅問題」は解決しました。


1961年には、労働者の生活水準を上げるために「第一次労働者財産形成法」を制定したり、1950年代から60年代を通じて、「成熟」の国民への還元は政策的に行われました。


特に、住宅普及は戦後の西ドイツ政府が最も力を入れた政策の1つです。


第一次、第二次の「住宅建設法」にもとついて、公的融資を受ける社会1967年には、「週休ニ日制」の法制化が行われました。


1963年には「連邦休暇法」が制定され、労働者は長期にわたる有給休暇がとれるようになりました。


・・・このような社会資本の充実や生活の質の向上に関する法制化が、GNP世界第二位になり、経済的に「成熟」の時代に移行する過程で実現されたことは、西ドイツが、つねに生活者中心の論理で動き、社会国家としての堅牢さを持っていることを充分に証拠立てました。


</description>
         <link>http://rodeoragz.com/2011/03/3_2.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2011/03/3_2.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sat, 05 Mar 2011 16:20:53 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「魔法の四角形」　2</title>
         <description>自国通貨の切り上げは当然国内の輸出企業を圧迫しました。


しかし、ヨーロッパ域内においては、1958年以来通貨の自由交換性が回復していたので、西ドイツの輸出企業はヨーロッパの輸出先に直接投資することができました。


これによって、西ドイツの個々の企業はむしろ過度の輸出依存から脱することができ、同時に西ドイツ全体の産業構造もバランスを保つことができたのです。


1960年代の成熟期、消費者物価は、50年代よりやや上昇したとはいえ、なお安定を保っていました。


1957年から67年の間の年平均上昇率は2.3パーセントにとどまっています。


物価に敏感なドイツ人はこれでも警戒心を強めましたが、同じ時期の日本が4.6パーセントであったのに比べればまだまだ低かったのです。


なぜ、物価上昇が抑えられたかは、マルク切り上げという為替政策によるところが大きかったことはすでに述べましたが、もう1つこの時期の労働生産性の高さも無視できません。


1950年代末から始まった労働力不足は、60年代に入って需要超過基調を定着させました。


これを補って外国人労働者が流入しましたが、このころからドイツ人労働者の労働時間短縮が続き、全体の労働力不足と併走する形となりました。


こうした労働力市場の逼迫は当然賃金の上昇を引き起こしました。

</description>
         <link>http://rodeoragz.com/2011/02/2_4.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2011/02/2_4.html</guid>
        
        
         <pubDate>Tue, 15 Feb 2011 16:20:00 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「魔法の四角形」</title>
         <description>西ドイツには「魔法の四角形」という理念があります。


物価の安定を前提としながら、適度な成長、高い雇用率、そしてバランスある経常収支・・・


これら一見矛盾する4つの要素を均衡させていくことが西ドイツ経済の安定につながるという考え方です。


むろん、これら4つの要素が同時に達成されたことは1度もないのですが、政府や連邦銀行当局者たちは「魔法の四角形」を理念として掲げ、その実現を目ざすという姿勢を変えません。


自国通貨を切り上げることは、黒字を減らし貿易相手国との摩擦を回避し、同時に安い外国製品を国内にもたらし物価を抑え経済に安定をもたらします。


1961年のマルク切り上げは適度な成長を保ちつつ、物価安定をもたらす効果を発揮しました。


この時期、西ドイツにおいては「成熟」につきもののインフレは起こらず、物価の安定が維持され、「魔法の四角形」に一歩近づくことができたのです。


こうした「成長」から「成熟」への過程で西ドイツ経済が身につけた原則は、通貨の切り上げが対外関係を改善。


同時に、輸入増のメリットが物価面に波及し、国民の実質的な所得拡大につながる、という確信でした。


自由競争と物価安定を柱とする西ドイツ政府の基本政策がここでも確認されました。

</description>
         <link>http://rodeoragz.com/2011/02/post_26.html</link>
         <guid>http://rodeoragz.com/2011/02/post_26.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sat, 05 Feb 2011 16:19:02 +0900</pubDate>
      </item>
      
   </channel>
</rss>

