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2010年12月 アーカイブ

安定成長期の無理のない移行 3

フランスの側には「フランスとドイツの歴史的和解によってヨーロッパにおける戦争の危険を恒久的に取り除く」というシューマン・プランがありました。


その一方で「ドイツの石炭とフランスの鉄鋼との結婚による統合ヨーロッパの誕生」というシューマン・プランは、西ドイツの急テンポの経済成長に対する牽制の側面も持っていました。


・・・ともあれ、西ドイツは、ヨーロッパ社会への復帰はフランスとの和解なくしてはありえないとの認識からこのシューマン提案に同意しました。


ヨーロッパ統合への動きは、1951年のECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)から1957年のEEC(欧州経済共同体)へと発展し、通貨、金融、税制、輸送、農業、労働など経済活動全般にわたる共同体が成立しました。


西ドイツは、この統合の過程で一貫して自由貿易政策を提唱することによって域内関税の引き下げに成功しました。


・・・・他方、現実の経済政策面で多少の負担が避けられない場合でも、あえてそれを受け入れるという態度も忘れなかったのです。


たとえば、域内の特にフランスの比較的安い農産物を輸入して西ドイツで販売する場合には、国内の農業を保護するために高く売らなければなりません。


そのためにフランス農民にはEECの基金から差額の調整金が支払われなければならなかったのです。


その調整金は結局西ドイツが負担しました。


要するに、西ドイツはフランスの農業を保護するために高い金を払うという妥協を行ったのです。

「成長」から「成熟」へ

西ドイツは、自国内だけで完結した産業構造を形成せず、EECの内部での最適分業の原理に任せつつ、そこから最大限の利益を引き出すことに成功しました。


・・・言い換えれば、「奇跡の成長」を続けながらも、開いた経済体制を構築し、次の安定成長期への無理のない移行を着実に準備していたのです。


西ドイツが実力の伯仲するパートナーに恵まれたことは事実ですが、それらの国々との共存のもとに全体的なスケールアップを目ざしたその戦略は評価されます。


自前主義と輸出志向でひたすら成長路線を走り抜けようとした日本との大きな違いがここにありました。


「奇跡の50年代」を経て、西ドイツはヨーロッパ最強の経済大国の地位を得ました。


ヨーロッパの一員として復帰する道が、同時にヨーロッパを基盤とし、そこをこえることによって世界経済へ飛躍的に参入していく近道でもあったのです。

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