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2010年11月 アーカイブ

安定成長期の無理のない移行

西ドイツが、1950年代近隣ヨーロッパ市場への輸出を伸ばして高度成長を遂げていったことはよく知られています。


1950年当時、ヨーロッパ主要各国の通貨は、西ドイツのマルクも含めて対ドル自由交換性を回復していなか(、た。


そうした中で、ヨーロッパにおける貿易を自由化し、経済規模を拡大するためには、アメリカから一応独立した形で、ヨーロッパ域内だけにでも、実質的な通貨の自由交換性を保証する仕組みが必要でした。


1950年に設立されたEPU(欧州支払同盟)は、ドルを共通の計算単位とする多角的な決済機構としてスタートしました。


しかし、EPUは単なる精算所の役割をこえて、金融の機能も持っていました。


貿易債務国にはクレジット(信用)を与え、それでも赤字が解消しない場合にはその大部分をEPU融資による金またはドルで決済させました。


その原資にはアメリカから出資された3億5000万ドルが充てられました。


西ドイツは、このEPUのメリットを最大限に生かしてヨーロッパ域内の貿易を拡大していきました。

安定成長期の無理のない移行 2

初年度にあたる1951年は、各国に先がけて輸入の自由化を断行したので4億8000万ドルの借りこしとなったものの、これは自由化のための一時的負担と受けとめられました。


しかし、翌年からは黒字を累積するようになり、1953年には、域内における輸入自由化率90パーセントを達成、貿易の数量制限と為替管理から解放されて輸出規模を着実に伸ぼしていきました。


1958年のEPU解散までに西ドイツは、45億8100万ドルの債権を累積させました。


ちなみに債務を累積させたのはフランス、イギリス、イタリアでした。


もともとEPUは、加盟各国が貿易量を拡大し、対米自立を達成するための暫定的な制度でした。


そのため、1958年、各国通貨の自由交換性の回復とともに解散しました。


ちなみにこの1958年という年は、西ドイツの高度成長に一応のピリオドが打たれ、次の安定成長へ向かう年でもありました。


EPUの動きと並行して、ヨーロッパの政治経済的な統合の動きが進んでいた。


この流れの中で西ドイツはどのような動きをしたのでしょうか。


当時、東西冷戦下のアメリカの世界戦略からすれば、ヨーロッパの統合は、ドイツ問題の西側的解決の場をつくることでした。


これに対して西ドイツの側には、経済的な繁栄こそが東ドイツを吸引する力となるであろうというアデナウアーの"磁石理論"が用意されていました。

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